新 平 の 欧 州 日 記・プ レ ス ネ ッ ト の 連 載 コ ラ ム  

                        
                                       

■ マッターホルン(前編) ■

マッターホルンはエベレストに続いて世界で2番目に有名な山だと思う。
ブリーク駅から氷河鉄道で、アレッチ氷河方面とは反対の西に向かうのである。
1時間半程で終点の小さな谷間の町ツェルマットに着く。
7月下旬に行ったのだがいきなり夏の嵐ボタボタとみぞれの洗礼を浴びた。
道が膨らんだような駅前ではホテルの客引きが競って客の取り合いをしていた。
語学がたんのうでなくてよかった。
明日の天気が気になりながら、屋根瓦に平たいグレーの石を乗せた
この地区独特の木造の、とてもシックなペンションに宿をとった。
夕食はスナックのようなお店で、チーズホンデュを注文した。
サイコロのように切ったパンを串刺しにして、溶けたチーズをからめながら食べたのだが、
2、3コ食べてごちそうさまって感じだった。
実は、その頃はまだそんなにチーズが好きではなかったのだ。
スイス美人の店の娘に「もう食べないよ!」というと、
それじゃあと言ってニコニコしながらパクパク食べてくれた。
これにもびっくりである。
夜になってもショボショボとみぞれまじりで明日の天気がとても心配だ。

■ マッターホルン(後編) ■

 朝起きてみると雲一つない快晴。最高の気分である。
あわてて朝食を済ませ登山列車で標高3100メートルのゴルナーグラートに登った。
途中カラマツ林から抜けるとドンと視界が開け
水虫薬の宣伝で有名な三角帽子のマッターホルンが
青い空にくっきりとそびえ立っているのが見えた。
この山一つでいくらでもお金がとれそうなそれは見事な有峰だ。
まるで地球の記念碑のような石の塊が青い空に突き刺さっている感じだ
途中下車しながら標高3100ゴルナーグラートに着くと、
足元にはまだ雪が少し残っていた。
展望台のレストランのテラスで軽い食事を取っていると、
近くに黄色いくちばしをしたカラスに似た鳥が近寄ってくる。
向こうの崖にはジャンプするヤギがいた。
足を滑らせたらいっきに500メートルくらいは落ちてしまいそうな崖っぷちに
平然とそいつは立っているのである。
食べ物もありそうにないのに結構太っている不思議なものだ。

■ アレッチ氷河 ■

 スイスにあるアレッチ氷河はそれは見事である。
イタリアに近いグリーグから氷河鉄道でメレル駅へ、
そこからロープウエイでいっきに500メートル程登ると
グライヒャーアルプに着く。
20軒くらいのホテルが点在している。
 アレッチ氷河の見えるモーフ・フルーは
これからさらに1000メートル程ロープウエイで登るのだ。
途中、西の向こうにマッターホルンも見えた。
終点に着き少し歩くと、いきなり吸いこまれそうな氷河が現れる。
まるで、U字管の淵に立っている感じだ。
谷底に目の焦点があわなくておかしくなりそうな風景に
誰もが少しの間放心状態になってしまう。
足元には珍しい高山植物が沢山咲いている。
つりがねのような花や糸がからまったような花など、どれも可憐な花ばかりだ。
しかし、私が興味をもったのは、この花に集まった虫だ。
ジーコ・ジーコと鳴くバッタ、小さい蟻、蜂、ハチモドキ、
シジミチョウ、クモ、コガネムシ、蛾のような蜂のような変わった虫も多い。
こんな厳しい所で花と虫はがんばっているのだ。
同じ花には同じ虫がいて、どうでも沢山の花と沢山の虫には関連がありそうである。
研究する時間もないが、
外国で一度にこんなに沢山の虫を見たのはここが初めてだ。

 

アムステルダムにてスケッチ

 

■ オランダの風車 ■

 オランダといえば、風車の印象が強いので
どこにでもあるのかと思えばそうでもないのだ。
私はアムステルダムから電車で15分程北に行った所のザーンセ・スカンスに行った。
コーフ・ザーンダイク駅から東に300m程町並みを歩くとザーン川に出る。
その対岸に一変して田園風景の中に数基の風車が立ち並ぶ。
どうせ箱庭のようで絵も画けないだろうなと思っていたらとんでもない。
印象派の画家シスレーが喜びそうな素晴らしい風景がそこにあった。
夏の高原の花ヤナギランが海抜0mのザーン川の岸辺にびっしりと咲き並んでいた。
その時には風車のある風景にとてもよくマッチしてると思ったのだが、
スイスでこの花を見た時にはちょっと驚いた。
ヤナギランはピンクの花で身の丈にもなるので、
スイスの高原よりは、オランダの風車の近くで咲いているのがとてもよく似合う。
 オランダは、日本と違って1年中いつも西風なので
風車にはとても都合が良い。
オランダの花といえばチューリップ、厳しい検疫を受け、庭に植えて喜んでいたら
2年もしない間に花屋さんの店先にたくさん咲いているのを見た時には
ちょっとガッカリもした。
赤に黄色い縁取りのとても綺麗なチューリップだったのに!

■ ゴッホ美術館 ■

 ゴッホは、名画のほとんどの絵をフランスで画いているがフランス人ではない。
オランダの何代も続く名門の家に生れている。
感受性が強かったゴッホは2つの失恋からとりつかれたように絵に没頭し始める。
絵を画くことが自分の道と感じたのが27歳の時だ。
37歳で自殺をする10年間のうち
初めの3年はほとんどデッサンに費やしたので
油絵は7年間ということになる。
たったの7年で100年過ぎた今でも世界を魅了する名画を
数多く画いているのだから驚かされる。
もっと驚かされるのはゴッホの生前はたったの2枚しか絵が売れなかったことだ。
ひまわりの絵50億円、アイリスの絵70億円と
びっくりするような値の付いたゴッホの代表作が
アムステルダムのゴッホ美術館にずらっと並んでいる。
代表作の中に「マヘレの跳ね橋」がある。
名画にあわせてその場所に行ったが
本当にここなのかって疑いたくなる程ガッチリした跳ね橋で、
運河の川幅も想像していたより広く、絵から見る風景よりはるかに力強いものだった
色相も絵から感じられる温かみもなく
河辺に座って少しねばったが、結局絵は画けなかった。

■ リラの花 ■

 私の庭にリラ(ライラック)の花が咲いている。
山野草や山法師、椿と和木中心の庭にリラの低木が植えてある。
これは、パリ郊外にあるゴッホの愛した町オーベルを思い出したいからなのだ。
この町には、ゴッホが描いたそのままの風景があちらこちらにあり、
ここから画いたらしい場所に絵入りの看板などもある。
ほかの町ではこんなサービスはない。
ゴッホは37歳の時、麦畑の中でピストルで胸を打ち自殺をはかった。
その2日後に誰にも世話をさせないまま静かに死んだ。
その麦畑は、オーベルの教会から300m程坂を登った所にある。
最後の作品になったと言われる「烏の群れ飛ぶ麦畑」その場所でだ。
ゴッホはこの町に連れて来られ、
死を迎えるまでのたったの2ヶ月の間に「オーベルの教会」を
はじめとする傑作を70点も書いたのだ。
ゴッホが狂気のごとく描きまくった町は、
パリから電車で、1時間くらいの所なのでよく行っていた。
おかげで犬に吠えられたり、溝に足を取られたり
毒蛇に出くわしたりのエピソードも沢山ある町でもある。
5月になと教会に通じる道沿いには白・ピンク・紫色のリラの花が咲き乱れ、
甘ったるい香りが漂っていたのがとても印象的だった。

■ モナ・リザ ■

左利きのレオナルド・ダ・ビンチが4年がかりでかいた「モナ・リザ」は、
誰もが知っている世界一有名な油絵だ。
この絵は、彼自身が一番気に入っていた絵のようで死ぬまで手元から放さなかった。
その絵がパリのルーブル美術館に展示されて200年になる。
周囲が2キロもあるルーブル美術館には、
ラファエロやルーベンスといった有名な画家の作品群が展示してあるが、
特にこの絵の前は、いつも黒山の人だかりだ。
あの謎めいた微笑みに200人くらいの熱い眼差しはくぎづけである。
この絵を見ただけでも、もう入館料の元は取れたというものだ。
彼はモナ・リザというモデルを大変気に入っていたので退屈しないようにと、
音楽の生演奏や道化師を呼んだりして画いたそうだ。
ガラス越しにしても、500年程経った今も、
その微笑みが未だに謎めいているというのはとても素晴らしい事だと思う。

■ シエナ ■

 この町は「ロミオとジュリエット」の映画のロケ地になったくらいだから、
美しい町だとは想像が付くが、
実際にこの町に足を踏み入れると動悸がするほど、自分で興奮しているのが分かる。
路地から急に視界が開けカンポ広場に出た時には、
腰を抜かしてしまうほどの感動で、しばらくの間立ちすくんでしまった。
この広場はホタテ貝のような形で
プブリコ宮殿から放射状に広がり、
たしかにロミオがフェンシングで戦った時に倒れこんだプールもある。 
ここが世界一美しい広場というのもうなずける。
広場の一角でゆっくりと食事をした。
ここは、トスカーナ地方で肉料理が美味いとのこと
特に生ハムは世界一だとか?やはり美味かった。
もう一つ美味しかったものに、ドーナツがあった。
ドシャブリの時、雨宿りの目的で入ったカフェにガラスケースの中から
食べてくれって手招きをしているドーナツを見つけた。
これは何かとかわいい店員に聞くとチャンベリーノだという。
ヨーロッパで日本人好みのお菓子は少ないなか、
あまりの美味しさにびっくりした。
しかし店を出る時レジで「これチャンベリーノね!」と聞くと
「はい、パスタね。」と、答える。
「チャンベリーノじゃないの?」と聞いても「はい、パスタね。」と、答える。
今度頼むにしても、やはり私の得意な人差し指で頼むしかないのだろうか。

 

パリのモンマルトルにて

 

■ シャンソニエ ■

 パリの夜は、シャンソニエでシャンソンを聞こう。
20年も30年も歌い続けているシャンソン歌手が目をギラギラさせて歌ってくれる。
私が時々行っていたのは、
ノートルダム寺院の近くのカヴォー・デ・ズブリエットという昔地下牢だったところを
ほとんどそのまま使っている。
アングラ的な雰囲気の中で、20人位の客がドリンクを飲みながら聞くのだ。
見まわしてもほとんどが外人の観光客ばかり。
フランス人は、本当にシャンソンを聞いているのだろうか。
日本では、演歌は肩身が狭く、CD全体の売上げがたったの3%にも満たないとか。
日本人の変化についていけないのか?
それともCDを買う世代が若者に偏っていて演歌を聞かないのか?
いずれにせよ演歌には頑張ってもらいたい。
シャンソンのように外国の人までもがきいてはくれていないのだから。
そんなことを心配しながら聞いているわけでもないが、シャンソン歌手としてすぐ思いつくのは、
やはりアダモ、エディット・ピアフ、ジュリエッタ・グレコと往年の人ばかりだ。 
シャンソニエの雰囲気に人知れず酔いしれて、
深夜のパリの裏通りをトボトボと歩く、
昼の風景しか絵を画く事はないが、こんなことも絵心にはきっと必要なのだろうと思う。

■ フォーレンダム ■

 フォーレンダムはオランダのアムステルダムから30分程のところにある小さな町だ。
黒い壁に赤い屋根のシックなたたずまいを感じさせる
アムステルダムとは異なっている。
この町は近郊にもかかわらず、エメラルドグリーンの壁にオレンジ色の屋根と、
パステルカラーの色調がとてもさわやかで綺麗だ。
一番の風景は港にある。
長いマストを立てた白い船が小さな港に所狭しと停泊している。
この風景を目にした時、
フランスの印象派の画家シスレーがまっさきに思い浮かんだ。
目の前の風景をいくらでも切り抜いて額縁に入れたいような気持ちになる。
1900年頃の印象派の絵が好きな画家は、こぞってここに来るべきだ。
きっと筆がはしるに違いない。
広い空、こじんまりとした家並み、
白い船まっすぐ伸びたマスト、遥か向こうの平線を感じさせる空気の層を
平面のキャンパスに表現できる嬉しさは、
この風景を目にすればいともたやすく出来るのではないだろうかと思えるほど
衝動にかられるのである。
思う存分風景に堪能した後は、名物のニシン料理を食べて、
記念に木靴をはいたオランダ人形を買って帰ることにすればいい。

■ ヴィーナスの誕生 ■

 ヴィーナスは愛と美の神様です。
ヴィーナスといってすぐ思いつくのはミロ島で発見された
大理石の像の「ミロのヴィーナス」と
ボティチェリが画いた「ヴィーナスの誕生」だろう。
ミロのヴィーナスはパリのルーブル美術館にあり、
ヴィーナスの誕生はフィレンツェのウフィツィ美術館にある。
このウフィツィ美術館は常設にもかかわらず
1時間くらい待たなければ入れない。
あのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」には
1枚の絵の為に、
2時間も汗をかきながら炎天下で待ったのに比べると、
ここは廊下なので天井もあり楽だ。
ルネッサンス期の画家のなかで、私はボティチェリが好きです。
鋼のようなピンッとした線で描かれた作品は時代を超えて、迫ってくるものがあります。
貝殻に乗り、首を少しかしげて髪を西風になびかせているビーナスは
一級の女神です。同室に「プリマべーリャ(春)」という有名な作品があります。
透けるような布をまとった女神たちは、
そろってお腹が大きいのに驚かされますが、
この時代は妊娠している時の女性がとても美しいとされていました。
自信と優しさがみなぎっているということなのでしょうか。
これから時代は次第に生々しく肉感的な作品に変動して行きました。

■ 明の明星 ■

私は、夜空を見上げるのが好きで
見上げた空に流れ星でもあればドキッとしてしまうものだ。
 過去、流星群やハレー彗星、百武彗星などの天体ショウがある時には
いつも夜を迎えるたびにワクワク、ソワソワしたものだ。
昨年11月のしし座流星群には、沢山の人が感動した事だろう。
打ち上げ花火1つのほうがはるかにきれいなはずなのに、
シューシューといくつかの流れ星が
夜空の天高いところで光の線となって輝いた瞬間に、
天体の空間と地球の天井が交差して神秘と感動が増幅されるのだろう。
街中ではあまり夜空を見上げることもないのだろう。
パリで画家仲間とワインを飲みながら美術談義やら古里談義に花を咲かせ、
朝方までポンピドゥー・センターの国立近代美術館の近くビストロ(居酒屋)で朝を迎えた。
パリではめったにない朝帰りだ。
リベリアホテルの帰り道
セーヌ川にかかるノートルダム橋から東の空にキラキラと輝く明の明星を目にした。
その時、異国にいる寂しさとこれからの絵の道に頑張れるのか?
という思いがドーンと胸に押し迫ってきた。
パリに来て半年目の強い思い出を感じた夜明け前の光景だった。
例え、一つの星、一つの花、一つの出逢いにも
熱いものを感じながらこれからも生きていきたいと思う。

■ 大道芸人 ■

パリの大道芸人は、ちゃんと許可をとり税金を払っているらしい。
だから、路上の物売りとは違いポリスマンが来てもあわてて逃げるようなことはない。
夏などは美術館や教会の前の広場などで
よく石像のように固まった動かないオブジェの芸人をよく見る。
ただ立っているだけなのになぜか人が集まって見ている。
この芸の欠点は目の前に置かれた器にお金を入れてもらえるタイミングがとりにくいことだ。
 冬の大道芸人の花形はなんといっても火吹き男だ。
夜になると有名なカフェやレストランの前など、
人のたくさん集まる広場に現れて口から火を吹くのだ。
口も焼けんばかりの大きな炎が2メートルくらい勢いよくボワーっと伸びるのだ。
一瞬の間、火炎放射器のような炎のあかりで、
遠巻きに囲んだ人々の驚きの顔がパァーっと赤く照らし出される。
それを2、3回続けて出すのでワーワーと声が出る程、観衆も興奮ぎみだ。
寒い冬の夜の風物詩といったところだろうか。
パリは大晦日の夜の12時になると、
シャンゼリゼ通り界隈は、無礼講でキッスの嵐になってしまう、
えじきになった日本人女性も多いことだろう。
相手はフランス人男性とはかぎらないのに。

■ パリの教会 ■

 もうすぐクリスマス、地球上ではサンタクロースが大忙しだ。
北半球は冬なので、ホワイトクリスマスでムード満点だが
南半球は、これからが夏なので厚着のサンタクロースは大変だ。
ブラジルに行った時に聞いた話しだが、
何でもサンタクロースは馬車に乗ってやって来るとか。
仏教文化の強い日本でも12月にもなるとクリスマスソングがよく聴かれ、
ショーウィンドウにもそれらしい飾り付けでいっぱいなのに、
本場のパリのクリスマスはとても静かなのだ。
12月になっても街中にもお祭り気分になるようなデコレーションはほとんど見られない。
パリには沢山の教会がある。
どこも荘厳なうちに静かなクリスマスの準備をしているのだろうか。
パリを代表する教会が二つある。
一つはまだ100年にも満たないモンマルトルのサクレクール寺院だ。
出来た当時はエッフェル塔と同じく、
パリには似合わないと、ブーイングの嵐だったそうだ。
もう一つはセーヌ河のシテ島にあるノートルダム寺院だ。
これは中世ゴシック建築でステンドグラスも
素晴らしく綺麗だ。
私が好きな教会は現存するパリの教会の中では
最も古いロマネスク様式のサンジェルマン・デュ・プレ教会だ。
教会前の広場では、大道芸人がよく人を集めている。
クリスマスイヴには、あちこちの教会で
天使の歌声が高い天井まで高らかに鳴り響くことだろう。

■ 続トイレのお話し ■

 私のトイレでの、失敗談と言って一番に思い出すのが
モロッコのカサブランカでの体験だ。
暑い日差しの中スケッチに疲れて、
部屋が2つの小さな公衆便所に用足しに入った時の事だ。
ドアを開けるといきなり足元はたらいのようになっていて広さは
電話ボックスの2倍くらいだった。
前方に足を置くための靴型が2つ盛り上がっていて、その先に穴がある。
その穴の上には水洗らしく管が天井から降りていて先がイチョウの葉のように広がっていた。
薄暗いトイレの中で、ドアに鍵をかけ大きい方の用足しをして、
おもむろに目の前のレバーを引くと“ビッシャッシャー”と
バケツ3倍分位の水が一気に出てきて革靴はおろか
ズボンの裾までもビショ濡れになってしまった。
あっという間の出来事でドアを開けて出る暇もなかった。
こんな恐ろしいトイレは絶対使用禁止にするべきだ。
それでなければ、短パンに素足の井出達で入る他ないではないか。
こんな状態では綺麗な椰子の木の並木も、もう目に入らない。
その後、日射病のような、だるくていくら水を飲んでも
喉の渇きが癒えないような症状が出て、
ホテルで2日間寝こんでしまった。
ハンフリー・ボガードには申し訳ないが、この町にはあまりよい思い出がない。

■ パリのトイレ ■

 ルーブル美術館の男性用トイレにはびっくりだ。
シッコを受ける器が高すぎる。80センチくらいはありそうだ。
フランス人の足が長いのは誰も分かってるから、
何も世界の人が集まるこの美術館でこのサイズにすることはないだろう。
的をはずさないようにうっかりわき目もしてられない
まるでテーブルの上にシッコをしているみたいだ。
さいわい私は足が長いのでこまることはないが、
後から入ってきた日本人男性2人は少々困りかげん、一人は大の方に入っていった。
 パリにはもう一つなぜって言いたくなる自動公衆トイレというものがある、
これがまたかなりの問題作品で、私自身も一度しか使った事がない。
幅の広い歩道にドンと
タイムマシーンのように置かれたカプセルトイレ、
コインを入れると弧になった自動ドアがゆっくり開き、
中に入るとユニットバスを小さくしたような密閉状態、
この10センチ程の壁の外では何十人もの通行人が
行き交っているかと思えばちょっと変な気持ち
外に出ると再び密閉状態になり
食器洗い機のようにシャワーの嵐
うっかり忘れ物でもすればそれはもうビショビショだ。

 

ゴンドラのあるベニスのスケッチ

 

■ セニョールのキキリキキー ■

キキリキキーって、何なんだと思いでしょうが、私も最初聞いた時はビックリした。
それは、ベネチアに2週間程滞在した時のことだ。
サン・マルコ広場の近くの1階がレストランになった、小さなホテルの3階に部屋をとった。
下に降りると、料理を運んでいるセニョールはいつも一緒で、
山本晋也監督に似ている。
最初の頃は、食事の時にインスタント味噌汁や納豆汁なんか飲みたくて、
そのセニョールにお湯を頼んでいた。
食事をしている時に気になるのか近づいては、「そんなもんよく飲めるな!」と、
ニコニコしながら鼻をつまんだり手をブルブルと振ったりしたものだ。
ある時、イタリア語のメニューを見ながらいつもの手探り状態で「これなんですか?」と、
聞くといきなり“キキリキキー”と
レストランの隅々まで響き渡る声で、何かの鳴声のような調子で言い放った。
50歳も過ぎたかっぷくのいいセニョールが、
恥じらいも無く大声で言ってくれた事に心を打たれた。 
ところで“キキリキキー”って、何なんだ?
私は豚がキーキーと鳴くので、豚かと思い紙に豚の絵を画いて見せると、
また“キキリキキー”って、大きな声で言うのだ。
もしかしてと思い、次にニワトリの絵を画くと、そうだ!そうだ!と、
山本晋也似の顔がニンマリとした。
そうなんだ、“コケコッコー”は、イタリア語では“キキリキキー”なのである。
注文して出て来た
キキリキキーの肉料理は、美味しかった事は言うまでもない。

■ ベネチアのゴンドラ ■

 水の都ベネチア。
世界遺産にも選ばれた中でも、誰もが認める世界一美しい町だ。
長靴の形をしたイタリアの東側の付け根にあるベネチアは、
ほとんどが海の上に造られた。運河の町だ。
アラビア風ゴシック様式の建物は
海の中に打ちつけられた栗の木の杭が何百年も支えている。
水の中では栗の木は強いらしいが、
5階建てはある大建造物をよくも乗せる気になったものだ。
昔の人は偉いという他はないが、
やはり限界が来ているようで毎年1cm位づつ沈んでいるらしい。
こんなに美しい町を沈めてなるものか。
町の心配は専門家に任すとして、この町を見物としゃれこもう。
ベネチアは車が一台もいない歩行者天国のとても落ち着ける町だ。
網の目のように張り巡らされた運河の中で、
Sの字に大動脈のように町を二分したグランカナール(大運河)のそのほぼ中心に
リアルト橋がかかっている。
ここは町一番の繁華街でたくさんのゴンドラや水上バスが往来する。
ゴンドラは真っ黒な細長い木造舟で、
誰も乗っていない時は右側にかなり傾いている。
これは漕ぎ手のゴンドリエーレが乗って
初めてバランスがとれるようになっている為だ。
昔は市民の足だったようだが、今では観光用のみになっているようだ。
歌手がアコーデオンに合わせてサンタルチアや帰れソレントなどを高らかに歌っている。
上手いのは多い中“金返せ!”って言いたくなるほど下手な奴もいる。
ここはいつも賑わっているので、歌手もここぞというばかり力が入るようだ。
まるでカエルの合唱だ。
ゴンドラはゴンドリエーレの見事なオールさばき前にも後にも真横にも進んで行く。
本当にゴンドラは優れものだ。
ゴンドラの船着場でゴンドリエーレと目が合うと
“ゴンドラ”“ゴンドラ”と誘いの声をかけてくる。
乗るときにはぐらぐらと不安になるくらい揺れるが、
乗りこむとゆりかごの中にいるような落ち着いた気持ちになるから不思議だ。
ゆっくり進むゴンドラにタポン、タポンと船底にあたる波の音が
異国での度の心をくすぐるのである。

■ 幻のポンペイ ■

ポンペイには行ったが、実は私は何も見ていない。
ポンペイは、ナポリから南に電車で30分くらいの所にある。
ポンペイは、遺跡で有名な町だ。
西暦79年のヴェスーヴィオ火山の大噴火であっという間に埋もれてしまった。
それから1700年もの間ずっと土に埋もれて静かに眠っていた町だ。
18世紀になり発掘が始まり250年程でやっと3分の2ほどが顔を出した。
そんな遺跡の塊の様な町に、昼過ぎに着いた。
まず腹ごしらえと、レストランに入ったのが、そもそもの間違いだった。
ウエイターはいたが、なぜかお客は私一人だ。
注文した時に何かブツブツ言っていたのだが、さっぱりわからない。
少し時間がかかるらしかったが
でもまさか2時間も待たされるはめになるとは思わなかった。
食事を済ませ、店を出た時にはもう陽が傾いていた。
急いでチケット売り場に行ったのだがもう入れないと言う。
中が広いので入場は早めに止めるらしい。
とても残念だ。
仕方なく外壁の周りをトボトボと歩く事にした。
壁の向こうの幻のポンペイは、買った絵葉書にしっかりと焼き付けられている。
それを見ながらナポリまでの、帰りの電車の中で
“どうせここは絵になりそうにない町だ”と自分を慰めた。
人からポンペイの話しを聞く度に
一人ぽつんといたポンペイのレストランを思い出す。

■ パリの蚤の市 ■

パリの蚤の市の発祥は、19世紀後半でパリ市外の外れに3箇所ある。
一番大きいのが北の端のモンマルトルの丘の裏側にあるクルニャンクールである。
他の2つは青空市なのに、ここはそれぞれが店舗をしっかり構えていて、
広さは市民球場の2倍位はありそうだ。
私は、蚤の市を見て歩くのが好きで、
絵を画く間にスケッチブックの入ったバッグを背負ってよく立ち寄ったものだ。
結婚する前の年、ここで彼女に似合いそうな古着があったので、
それをお土産にしたらとても喜んで着てくれていたのに、
新婚旅行の時、ここに立ち寄ってからはまったく着てくれなくなった。
どうでも少しショックを受けたらしい。
十数年前、ここからゴッホの画いた本物の油絵が見つかって
大騒ぎになった事がある。
もちろん“売った店主はびっくり”“買ったお客はもっとびっくり”といったところだろう。
そんな宝くじの様な事はないにしても、
掘り出し物に出会えそうな期待でワクワクの蚤の市。
陶器、銀製品、絵画、家具、ありとあらゆる骨董品がある。
変わった所では、使い古しの便器や、入れ歯まで、
まさか買う人はいないだろうに、とにかく何でも売っている。 
25年前に、ここで買った陶器製のランプが
3月25日の芸予地震で壊れてしまったのがとても残念だ。
また買いに行かなくちゃ。

■ セーヌ川 ■

 芸術の都であるパリの景観は、
パリの真ん中を蛇行しながらゆったりと流れるセーヌ川なしには語れない。
セーヌ川にはバトー・ムーシュという有名な遊覧船があるが、
その船にはわたしは一度も乗ってはいないのだ。
いつも右岸か左岸を歩きながら豪華なその船をうらやましそうに見ていたものだ。
実はそれを横目に、寒い冬なども指をかじかませながらいつも私は絵を描いていた。
私が好きでよく行く場所はパリのほぼ中心のシテ島とサンルイ島がある所で、
この近くを自慢ではないが、何百枚も絵を描いている。
ときどき川に釣り糸をたらしている人を見かけるが
今までに魚を釣り上げた人を一度も見ていない。
どうせ釣る気もなく川と糸電話で話しでもしているのだろう。
「そんな感じだ。」水はいつも濁っている、どれだけの深さか検討もつかない。
パリの郊外のポン・ト・オワーズの小川でマスらしき魚を沢山見たが
この川にははたしてどんな魚が住んでいるのだろうか少し興味がある。
そんなことを考えながら、川岸を歩くのも楽しいものだ。

 

中央の赤いテントのカフェがカフェ・ロトンドでリベリアホテルから
100メートルほどのところにあり このカフェには
ピカソやモジリアーニや藤田嗣治が通い詰めていた。

 

■ リベリアホテル ■

 リベリアホテルはモンパルナスの地区のグランシュミエール通りにある。
150mくらいの短い通りなのに画材店が2つもあり
画家達にとっては都合のよい所だ。
このホテルの1階(フランス式では0階)の奥の部屋には
あの有名なゴーギャンのアトリエがあり、
3回目の渡仏の時にはその部屋に泊まることができた
少しゴーギャンがたぐり寄せられた感じだ。
同じ空気ではないはずなのに深呼吸などしてジーンと体か熱くなる。
最初にきた1970年代にはこのホテルの半分以上が日本人で
そのほとんどが画家で変人の多い集まりだった事だろう、
10年近く住みつき展覧会に作品を出品し
落選続きの者、酒浸りの者、いつもハイテンションな者、決して目を合わさない者、
こんな中でマイペースでやるしかないと感じた。
ベネチアのサンタルチア駅で、偶然リベリアホテルの住人を見つけた。
北海道に帰ればかなり有名な画家らしかったがしばらく見ていると、
カウンターにこぼしたビールを
右や左に平手でシャッシャッと飛び散らしていたかと思うと
今度はオールバックの髪になでつけていた、
隣のイタリア人はちょっと遠巻きになった。
声をかけなくてよかったよかった。
 そうそう、リベリアホテルの向にはモジリアーニのアトリエがあるのだ。
この近くで頑張ればなぜか絵がうまくなっていくような気がするから不思議だ。

■ ファド ■

 ファドはポルトガルの演歌といったところだろうか。
ファドには運命や宿命とかいう意味があるようで
歌い方も押し殺してしぼりだすような感じだ。
歌手の中では群を抜いてアマリア・ロドリゲスが素晴らしい。
先日テレビでファドの特集があり
アマリア・ロドリゲスが1999年に79歳で亡くなられたと聞かされた。
私が20代の時には彼女の歌をよく聴いていたものだ。
1975年の秋にリスボンに行った。
目的は本場でファドを聴き、レコードを買って帰ることだった。
リスボンはやたら坂が多く道も込み入っているのですぐに迷子になってしまいそうだ。
ブラジルジョークに
「リスボンの死体」というのがある。
リスボンのある裏通りで人が殺されていて
発見者が警察に通報したが場所の説明に要領を得ない警察官にゴウをにやして

「ちょっと待ってくだせい」と言い、しばらくして電話口まで戻って来たら警察官は
イライラして怒鳴った
「遅かったじゃないか、え!何してたんだ」と聞くと
「もう大丈夫でさぁ表通りまで出しておきましたから、すぐ分かりますよ」だとさ。
私がリスボンで残念だったことは選びに選んで買ったファドのLPレコード3枚を、
駅のインフォメーションのカウンターに置忘れたまま列車に乗り
マドリッドまで帰って来たことだ。
勿論忘れたLPレコードは全てアマリア・ロドリゲスである。

■ 最後の晩餐 ■

 レオナルド・ダ・ヴィンチが画いた「最後の晩餐」はミラノの修道院にある。
この壁画はフレスコ画ではなく油絵でかかれている。
そのせいか傷みが激しく500年もの間に、なんども修復作業が行われた。
2年前の春に20年間の修復作業を経てオープンした。
その年の夏に見に行く事ができた。
1枚の絵の為に、寺院の入り口には沢山の人が並んでいた。
木陰のない石畳の上で夏の炎天下にさらされ2時間も待った。
絵を前にして、25年前興味本意に見ていた自分と違う今の自分がそこにいた。
薄暗い部屋の中にあるこのから500年の時をこえて
イタリアルネッサンスの静かで強い風が伝わってきた。
彼は「最後の晩餐」から5年後に
あの世界的有名な「モナ・リザ」を画くことになる。

■ パリの郵便局 ■

とにかく私は、パリのモンパルナスにある郵便局をよく利用したものだ。
局に入ると、今発行している大小さまざまな記念切手や
通常切手がたくさん展示してある。
なるべく綺麗な切手を貼って出したいと思うのでよく悩む。
切手に印刷されている文字や、
額面の数字をてこずりながら紙に書いて、切手を売る窓口に行くと、
そこは決まって女性の局員だ。
フランスの女性は、言葉の通じない男は嫌いなようだ。
それは、私がメモを差し出すと手まで振り上げ、
なんてこったいといった感じで、となりの同僚と話し出す始末。
たくさん買った時などは、計算帳代わりに切手シートの裏面に
ガシャガシャとボールペンで、書かれた事もある。
ある時は、目の前でカシャッとカーテンを引き、隠れてしまった。
そんな時決まって横から助けてくれるのが、男性である。
係りでもないのに、丁寧に「これか、これか」と切手を探してくれる。
私は、35年程前にアイドルを探せでデビューした
シルビーバルタンをテレビで見たとき、
世界一かわいい女性はフランス人だと思っていたのだが、
この郵便局の体験からフランスの女性と、
結婚するくらいなら、まだフランスの男性とした方がましだと思った。

■ パリの犬たち ■

パリには犬がたくさんいる。
静かで一匹もいないだろうと思えるカフェでも、パーンとシャンパンの
栓が抜ける音でもすれば5匹くらいは出て来るにちがいない。
テーブルの下では、ちゃんとお見合いが出来ているはずなのに
クンクンとかガウガウも全くしない。
その訳は簡単で、そのほとんどの犬たちは、去勢の手術済みなのである。
昔から犬は吠えるもの、猫は引っかくものと思っていたのに
これでは まるで耳の短いウサギではないか。
そのくせウンチは大きくて細長い。
ペットとして可愛がっていても、洒落た店先にしたウンチの
後片付けをする飼い主はほとんどいないのだ。
私もいつの間にかウンチを踏まないようにと、まるでお金でも落ちてはいないかと
思えるほど、しっかりと足元を見て歩く癖がついてしまった。
それにしても解せないのが、道路沿いに止めてある車のタイヤホイールなどに
平気でオシッコをピチャピチャと掛けさせていることだ。
たまに運転手が乗っていることがあるが、何も言わないのだ。
もちろんの事ながら犬がオシッコを済ませると飼い主は素知らぬ顔で
サッサと行ってしまう。
これは一体どういう事なのだ。

 

 



 

 

 

 

 

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